インストゥルメンタルに癒しを求めて
一説によると読書などするときは駅・カフェなど雑音の多い場所の方が集中力が高まるのだという。
ぼくはといえば読書をするとき、またはブログを書くとき、雑音のない場所を好む。
音楽が必要と思うときは、インストゥルメンタル。ヒーリングミュージックなどを流している。
インスタグラムで若手の音楽を探すのが楽しみ。
テクニックに関しては実に素晴らしい。
どうすればこの若さでこれだけの技巧を身につけることができるのだろうと不思議に思う。
それでも、このインターネットの大海の中から時代に選ばれていくミュージシャンはごく僅か。
それも大概はおおよその予想を外したような世間から見れば意外なミュージシャンが大抵の場合頭角を現してくる。
どうしてこのアーティストだけが?というアーティストが脈々とファン層を広げていく。
まるで天からの支援を受けているかのように、内側に秘めた輝き。
それは声でわかる。音でわかる。バイブレーションでわかる。
明らかに違う何かがある。
選ばれしマインド
宗教という意味ではなくても、キリスト意識という思想が世の中にはある。
インドではヴィシュヌ神は時代が混沌としたとき、人間の姿を模して歴代の聖人たちは地上に現れると言われているけれど、人類は本来、誰もがー霊人・ひとーとして、身体のうちに霊の光を灯されている。
聖人と称され、人々を救ってきた灯火は、本来、全ての魂にも灯されている。
自分のマインドの奥深く中央にまたは頭上高くに自分は天からの御霊の一部なのだという意識のある魂。
どうしても譲れないものを持つハート。
それは見る人が見ればすぐにわかる姿で人々を魅了する。
この世界で伝えるべきことを伝えるために生まれてきている。
それも本来、気づきが早いか遅いかの差であり、すべての霊人は赦し赦される赦されている。
そこに差はないのだけれど、現時点ですでにその意識あるアーティストはやはり選ばれ、自然、スターダムにのし上がる。
今は音楽を聴くためのデバイスが多岐にわたっている。
多様性という言葉は本当に人類にとって有用なのかどうかさえもわからないけれど、趣味趣向も広がり続けている。
ご飯と焼き魚とお漬物とお味噌汁しか食べなかった日本人。
今や、食べられる食材の一覧を作ればどれだけのページのある書ができるだろうと思う。
言葉なき中にもある言霊
インストゥルメンタルの音楽を聴いていると、音楽の中にある言葉がハートに語りかけてくる。
音楽には素晴らしいパワーがあるとわかる。波動が変わる。
ぼくたちはあまりにも言葉と音楽に対して敬意を払われなくなってしまった時代に生きている。
未来へ向かうステーションもかなり多くなった。
北陸新幹線が到着駅を変更するごとに、街の様相が変わるように、移動手段の好都合が激変するように、
人生のステーションもどのように変化してゆくのか。
人生という大地を走る列車のレールはどう配備されるのか。
今は自分の立っているステーションを信じるしかない。
そのステーションからではたどり着けない場所へどうしてでも行きたいのであれば、方法を考えればいい。
ぼくたちには歩くための足と考えるための頭脳とハート。奇跡を起こすための天と地がある。
全ては意識が決める。
すでに赦されている。赦している。
天があらゆる視点から整えている。
何もかもを見えているものことだけで判断して、常識の範囲内だけで答えを出そうとすれば、
あまりも簡素な歌や絵画、物語が生まれてしまう。
実際の未来にしても、現状の引き続きの板のように見てしまえば、それはあまりにもあっけなく、味気もない。
時代が迷いに引き込もうとして幻を見せ続けるのであれば、意識をしっかりと持って歩もう。
幻が現実なのか。現実が幻なのか。
真実の愛は全てを赦す光。
交差する線路を見つめながら、あなたにはゴールは見えていますか?