ねばならないのない暮らし

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常に第一線とは言えず、常に現役とは言えなくても25年間を作詞家として生きてきました。
自分の肩書は常に作詞家であり、大袈裟にいうならば作家としての人生を背負ってきてきました。
用意のできていないところにデビューの扉が開かれて始まったクリエイターとしての日々は自分の想像を遥かに超えた異次元の世界で、無意識に迫る精神的な重圧から逃げ出したくて逃げてしまったこともありました。

2019年には世界的なパンデミックがあり、命というものをとても深く考えるようになった。
2024年は身近な人の訃報がいくつもあったりした中で自分自身人身事故に遭いまた多くのことを考える機会を得た。

この10年ほどは精神世界に関しての探究ばかりで、
かなりの読書量を経てきたけれど革新的な答えに辿り着いたかと思えば離れ、
ブッダでさえも完全な悟りを悟り続けていたわけではないと言う人もいる。

たとえば身辺を綺麗にする。
これは当たり前のことで、そうすれば日々が健やかになることに疑いの余地はない。
風水、縁起、占い、あらゆる精神論はこうであれば運命は良くなると説く。

だけどこれらの教えは一歩間違えてしまうと、
こうしなければ不幸になるという恐れを武器とする教えにもなってしまう。

もしも何か一つ。例えばトイレ掃除をしなければこうだという通りに教えを取り入れるとすれば、
万象について、あらゆる教えが適用されることになる。
この世界にはどれだけの教えがあるのだろう。迷信があるのだろう。

そんな完璧を人間にできるはずはなく、
やがて自意識過剰な人間が出来上がることは見て取れる。

人間とはそもそもが完全でありながら不完全な生き物。
というよりも人間がこの世界の中で完璧な行いをしようとすると、
テラの世界では足りないほどのねばならないとの闘いになってしまう。

ぼくはそんなのは嫌なので、
自分の人生にはねばならないことを多く持ち込まないことにした。

早朝、誰も起きていない時間に起きて瞑想をして、掃除をして、朝日を見てと
かなり密度の濃いルーティーンをこなしていたけれど、
退院してから動きの取りにくい脚を言い訳にはそれらもかなり簡略化した。

もう少し良い加減で生きた方が良いと思えるようになった。

人には皆、その時その時のタイミングがある。
ぼくがこうだからといって、あなたもそうだとは限らない。
だからあなたはあなたのタイミングで、
今が自分を追い込み完璧を求める時だというのであればそうすれば一番良いのだと思う。

ぼくは作家として少し普通一般的ではない暮らしをしてきて、
これからは物事をこうでなければならないことと決めつけたりせずに自分にも他者にもそれを押し付けないようにして生きていきたいなと思うのです。
昔のぼくは自分のことも他者のこともいつもジャッジメントしてある種、分離の世界にいた。
この世界はマインドとエゴに流されれば分離が現れてしまう。
ならばねばならないで分離がなくなるかといえばそうでもないように感じられる。
マインドとエゴを膜として、内側から輝く光。
そこには本来分離なんてない。

シンプルに食べたければ食べる。でも食べ過ぎはしない。
汚れていれば片付ける。だけど神経質にはならない。
誰かの決めつけたような運勢論には右往左往しない。

話はかなり脱線するけれど、
最近、海外のストリートスナップ、いわゆる各国の人々の服の着こなしを英語の学習を兼ねて楽しく見ている。
その辺りの動画を見ていると日本の異常さが浮き彫りになって感じられる。
何か四角四面な檻のような、整然としていることは良いことだけれど、
何か、ねばならない呪縛のようなものをぼくはこの日本という国に感じてしまうのです。
ただ面白いのはそんな日本のある意味窮屈さが海外から見ると魅力に見えるということ。
もちろんある種グローバルに見れば異常さはありながら、
本来の日本は素晴らしい国だから海外からはその姿が素直に見えるのかもしれないですね。
日本特有の気遣いは暮らしていく上での豊かさだと思います。

必要以上の神経質を持たず、
ねばならないという考えを少し手放した暮らし。
それってある意味では幸せなのだと思います。

ある程度の責任は生き甲斐として。

阿閉真琴